奇跡的な出会いのフランスオリーヴオイル
初ディスカバリーオリーブオイル編@ドメーヌ・サルヴァトール社
5歳の頃から一人台所に立つ事に興味を持っていた。
ハーブ研究家の母(髙野尚子)が日々の生活の中で教えてくれた事はたくさんあった。
そんな環境もあり、大好きな食の仕事を一度も離れた事はなかった。
ハーブの中でもオリーヴの魅力をもっと引き出したいと、
5年ほど前自分で試行錯誤しながら日本食に合わせるオリーヴオイルのイメージをあたためていた。
18歳で初めてパスポートを取得して以来世界中を回った。
いつも海外に出ると思う事があり、大分県に生まれ育ってきた私には必要不可欠な故郷の香りと味がある。
1992年、20代でフランス(パリ)のル・コルドン・ブルーフランス料理・菓子学校の卒業制作にも
大分県の誇る素材で作ったお料理で見事グランディプロムの優秀賞を獲得。
当時教わったシェフ達も大分県の素材には感動していた。
オリーヴオイルは中学生の頃、お料理やハーブを使って食卓を彩ってくれていた母が良く使用して慣れていた。
ただ、昨今のオリーヴオイル事情とは異なるクオリティだったかもしれない。
ハーブ研究家の母に同行してスペインに初めて行った折、
オリーヴ園を見た時は圧巻させられた。
もう27年前の事。
そして、2012年11月、
25年来の知人で当時101歳のマリアに久し振りに再会した事が、更にきっかけとなった。
彼女は至って元気で、しかも記憶力が鮮明であった。
大分県産品を使用して試行錯誤して出来た製品も、何かが違うと数年間その何かを探していた。
「一般社団法人日本オリーブオイルソムリエ協会」で沢山のオリーヴオイルが味わえると言うことを知り
オリーブオイルソムリエの資格を取得した。
それでも自分の目指す味、納得する味にベストマッチするオリーヴオイルにはなかなか出あわず、
フランスで頂いたフランス産の美味しかったオリーヴオイルの事を思い出し、
その味を求めるのが一番と思った。
数か月間文献、情報、品種等研究に没頭した。
自分が探しているオリーヴオイルにはいくつかのポイントが有った。
集めた情報から振いにかけ、妥協だけはしたくないとかなり厳しい採点方法だったのかもしれない。
フランスには約200個以上のムーラン(フラントイオ)がありその中から品種等の選択だったのでかなり時間を要した。
数社見つかった中から、どうしても一社だけ現地へ訪ねてみたいと思うようになった。
いても経ってもおられず、即大分県の自宅からフランスの生産者へ連絡をしてみた。
つながらず。。。
諦める事が出来ず一週間後、再度連絡をした。するとやっとコンタクトが取れた。
渡仏して実際に「味と栽培している農園とムーラン(工場)を見せて欲しい。」とお願いした。
すると、
「何時でもどうぞ。」 と言われ、早速航空チケットをとり渡仏した。
なぜか不思議なくらい心臓がドキドキし始めた。
2013年9月、パリのリヨン駅からTGVに乗り、南仏の最寄り駅まで到着。
駅までドメーヌ・サルヴァトール社のFREDERIC氏が迎えに来てくれた。
彼が、不思議そうな顔をしていた事は今でも鮮明。
誰の紹介者も、つても無く訪ねて来た日本人だったからかもしれない。
彼からオリーヴ園の環境、品種等の話を車中で伺い、オリーヴ農園を丁寧に見せてもらった。
品種の研究も彼の祖父であるシャルル氏が約50種類ほど植えて研究していた。
その農園も残されており見学させてもらった。
現在農園に植えられている品種アグランドー・ピッチョリーノ・ブテイヤン・タンシュ等の生育状態も見た。
オリーヴにとって、「オリーヴ栽培に最も適した環境」だと感じた。
フランスのオリーヴ栽培地での果実が実る最北端に位置していた。
ミストラルの風(フランス特有の地方風)が織りなす環境、土づくりの説明、効率のよい補水方法、オリーヴの品種別特性等。
次に工場見学。
オリーヴ園~車で1-2分で到着し、あまりにも近距離に搾油工場があるのも驚いた。
全てが上質のオリーヴオイルを搾油する最高の設計だと感じた。
工場見学も終わり終始感動の連続、最終章で有る味の確認に入った。
一種類づつ味を見せて頂くことに。
味わう毎にと興奮と驚嘆と感動したことは、今も忘れない。
『本物のオリーヴオイルだ』と、思った瞬間だった。
あまりにも美味しすぎてこのおいしさをまだ知らない日本人へ伝えたいと強く思うようになった。
諸手続きを完了して直輸入に至った。
[生産者の顔が見えるオリーヴオイル]である。
少しでも彼のオリーヴに対する愛情とエスプリが伝わっていければと、、、
2014年春から日本への輸入が本格的に始まった。
また、これなら5年ほど前から試行錯誤していた大分県産品を使った新商品が出来ると確信した。
この事が御縁で毎日美味しいオリーヴオイルで健康的な生活送る日々。
le 22 septembre 2013 par Etsuko TAKANO 髙野 悦子






